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安倍晴明が生きた平安京 |
安倍晴明を一躍“歴史上の人物”から“歴史上のアイドル”的存在へと認知させた感のある映画『陰陽師』ですが、このストーリーの中核的サブストーリーの中に登場する桓武天皇は792年に『平安京』の造営主です。
それ以降、この都は『平安京』と呼ばれ、1000年以上に経った今も“古の雅”を私たちに伝える古都となっています。
1000年の都の基を築いた桓武天皇と一世紀以上の時を超えた現在に“怨霊”として紹介された早良親王の間にはどんな事件があったのでしょうか?
映画『陰陽師』のストーリー背景を知るために、安倍晴明が生きた平安京に潜む“怨霊物語”の登場人物、平城京造営の主・桓武天皇とその弟・早良親王の史料を紐解いてみることにしましょう。
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桓武天皇・早良親王 略系図 |
桓武天皇は第49代・光仁天皇を父として、渡来氏系の高野新笠を母として天平9年(737)に生まれ、山部親王と呼ばれ、父が白壁王と呼ばれていた頃は30歳頃になっても従四位下の一貴族に過ぎませんでした。母の素性からも解るように、決して順風満帆に帝位を踏んだ訳ではありません。
父・光仁天皇には聖武天皇の娘・井上内親王が皇后としてあり、その息子・他戸親王が既に皇太子として決められていたからです。
内親王である井上皇后を母とする他戸親王と渡来氏族の娘で妃の一人に過ぎない高野新笠を母とする山部親王。
その血脈を見れば比較すべくもなく、皇太子位からは程遠かったのです。
では何故、そんな立場の山部親王が帝位を踏むことができたのでしょうか。
ここに一つの策謀の動きを推察することができます。
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廃太子・他戸親王 |
藤原氏は中大兄皇子と共に『大化の改新』を推し進めた中臣鎌足に始まりますが、「松をも枯らす藤のように勢いを持つ血脈となるように」として賜った氏姓『藤原』が示すように、鎌足の息子・不比等が聖武天皇の外祖父となって繁栄の基礎をつくり、その息子たちは“南家”“北家”“式家”“京家”と呼ばれる四家四流に別れ、藤原氏同属内での主導権争いが始まっていました。
まずその先駆として“北家”の永手と手を組んだ“式家”の良継・百川は後嗣の無かった女帝・称徳天皇の皇太子として天智天皇皇孫である白壁王を担ぎ出し、帝位に就けることに成功します。桓武天皇の父・光仁天皇です。
しかし既に61歳の老齢に達していた光仁天皇の在位期間に不安を持つ百川は次世代に目を移します。
光仁天皇即位翌年の宝亀2年(771)に立太子された皇太子・他戸親王の後ろには井上内親王という皇后があり、何よりも光仁天皇即位で手を握った“北家”の永手が近侍していました。
“式家”の良継の娘・乙牟漏は山部親王の妻でしたが、永手と同様に光仁天皇即位に同じように奔走したにも関わらず、皇太子・他戸親王が存在する限り、次世代の権力に近づくことは難しく感じられました。
他戸親王の立太子の直後、その未来に希望を託して近侍していた“北家”の永手が死亡しました。
明けて宝亀3年(772)には父帝・光仁天皇を厭魅した罪により、皇太子・他戸親王は母・井上内親王と共に位を剥奪され、投獄されます。
間髪入れずに百川は光仁天皇から空位となった皇太子の地位に山部親王を就ける口約を取り付け、翌年が明けるのを待ちかねたように宝亀4年(773)の正月2日に立太子を実現させたのです。
40歳の皇太子・山部親王の誕生、それは“式家”が“北家”との競い合いに勝利したことを意味しました。
ちなみにその2年後、宝亀6年(775)の同日に廃后・井上内親王と廃太子・他部親王は母子揃って牢内で死亡した、と言われており、その獄死の背後には百川一派の策動があった、と推定されています。
桓武天皇の玉座の足元には屍が重ねられていたのです。
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